2009年12月16日

徳川光圀

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、江戸時代の常陸国水戸藩第2代藩主。水戸黄門としても知られる[1]。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主徳川頼房の三男、母は側室・谷氏。徳川家康の孫に当たる。藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行ったほか、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。また、徳川一門の長老として、将軍綱吉期には幕政にも影響力を持った。同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をするフィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた(水戸黄門の項を参照)。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。現在では光圀伝承を排除した実証的光圀像の検討も行われており、光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては文化事業が招いた光圀以降の藩財政悪化が指摘されている。生涯寛永5年(1628年)6月10日、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれる。光圀の母は家臣谷重則の娘である久子で、『桃源遺事』によれば頼房は三木夫妻に対して久子の堕胎を命じたが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたという。光圀を懐妊した際に父の頼房はまだ正室を持ってはいなかった。後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、母の久子は奥付きの老女の娘で頼房の寵を得て懐妊するが、頼房の側室であるお勝(円理院、佐々木氏の娘)がこれに機嫌を損ねたため頼房は堕胎を命じ、同じく奥付老女として仕えていた三木之次の妻武佐が頼房の准母であるお梶の方(お勝、英勝院)と相談し、密かに自邸で出産したという。また、光圀の同母兄である頼重出産の際にも同様の先例があったという。『西山遺文』によれば幼少時には三木夫妻の子として育てられたと言われ、光圀の侍医井上玄桐の記した『玄桐筆事』には生誕後間もない光圀と頼房が対面していることを伺わせる逸話を記している。また、『桃源遺事』『義公遺事』『玄桐筆事』などの伝記史料には幼少時からの非凡を示す逸話が記されている。寛永9年(1632年)に光圀と兄(頼重)の存在が明らかになり水戸城に入城した。翌寛永10年(1633年)11月に光圀は世子に決定し、翌月には江戸小石川藩邸に入り世子教育を受ける。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっているが、頼房の付家老中山信吉(備前守)が水戸へ下向して行われており、3代将軍家光や英勝院の意向もあったという。翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で将軍家光に拝謁している。寛永13年(1636年)には元服し、将軍家光からの偏諱を与えられて光国と改める。承応3年(1654年)には前関白近衛信尋の次女・尋子(泰姫)と結婚。明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。寛文元年(1661年)8月19日、常陸国水戸藩28万石の2代藩主となる。弟・松平頼元に常陸国那珂郡2万石(額田藩)を分与し、26万石となる。 水戸下町住民は飲料水に不自由であったため、藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行望月恒隆に水道設置を命じた。笠原から細谷まで全長約10kmの笠原水道が翌年完成した。 寛文3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、彰考館とする。延宝7年(1679年)、諱を光圀に改める(光圀52歳)[2]。 元禄3年(1690年)10月14日に隠居し、藩主の座を綱條に譲る。元禄4年(1691年)、西山荘に隠棲した。元禄5年(1693年)には水戸藩の藩医であった穂積甫庵(鈴木宗与)に命じて救民妙薬を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。元禄7年(1694年)11月23日、幕閣や諸大名を招いて行われた能舞興行の際、人払いをした密室で重臣の藤井紋太夫を刺殺した。理由は不明だが、藤井が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。72歳頃より食欲不振が目立ち始め、元禄13年(1700年)12月6日に食道癌のため死去。享年73(満71歳没)。光圀は、兄(頼重)を差し置いて藩主になったことを後悔していたといわれ、後継に兄の子(綱方)を養子に迎え世継ぎとしたが、早世したためその弟・綱條を養子に迎え世継ぎとした。また、光圀には側室との間に実子(頼常)がいたが、この実子は兄の養子に出していた。光圀の人物像 茨城県水戸市千波公園にある徳川光圀像幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより学問に精を出すこととなる。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐みの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。さらに、野犬50匹を捕らえてその皮を綱吉に献上したこともある。また、オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、朱舜水を招き、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま譜代の家臣にしてしまってもいる。他に水戸に来た中国人(もしかしたら清朝から亡命して来た漢民族)も譜代の家臣か使用人にした。鮭も好物であり、カマとハラスと皮[3]を特に好んだ。さらに、吉原遊郭近郊の浅草界隈で見た手打ちうどんの技術を自ら身につけ、うどんを打つこともあったという。当時の人物としては普通に衆道のたしなみもあった。光圀は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。女色は両方が快楽を得るが男色は片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛でしかない。政治は女色のように為政者も民も両方が快楽を得るようにしなくてはならないという意味である。『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与える。延宝2年(1674年)には、父・頼房の実母(お万の方)の墓参りと、頼房の准母(お勝の方)の三十三回忌供養のため、鎌倉に出向く。この鎌倉までの日記を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)として纏め上げた。更に貞享2年(1685年)には、「鎌倉日記」を基にした地誌『新編鎌倉志』の編纂を家臣の河井恒久らに命じる。元禄5年(1692年)には、南北朝時代に湊川の戦いで戦死した楠木正成の功績を称え、同地に墓石を建立(光圀65歳)。墓石には、光圀の自筆で「嗚呼忠臣楠氏之墓」と記されている。なお、その場所は明治5年(1872年)、明治天皇によって湊川神社が建立され、昭和30年(1955年)には光圀の銅像も建立されている。光圀にみる水戸徳川家の地位大日本史の編纂により、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くをこの事業に注ぎ込むこととなる。財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、光圀の養子・綱條が財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。これにより水戸藩は、幕閣や譜代大名から「綱條公は将軍の器にあらず」との認識を持たれることとなり、享保元年(1716年)の将軍・徳川家継の後継者選びにおいては綱條が御三家の当主の内、最年長であるにも関わらず、紀州藩主・徳川吉宗が後継者に選ばれた。以後、水戸徳川家からは将軍を出さず、将軍の補佐役として参勤交代を行わず江戸に定府することとなる。常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は(俗に)「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになる。結局、2代目藩主・光圀以降、9代藩主・斉昭の七男・慶喜が将軍職に就くまで、水戸徳川家からは将軍職に就く者はいなかった。また、慶喜は一橋家に養子に出され、そこから将軍職に就いたので、系譜上では水戸徳川家から直接将軍に就いた訳ではない。光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきだが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われる。結果的には「水戸学」が目指した“愛民”の理想からは逸脱してしまった側面も存在し、単純に「名君」として評することはできない。また、光圀の勤皇思想は、幕末において倒幕のイデオロギーとなり、結果として徳川家の天下を終了させる原因のひとつとなった。特に水戸藩出身で最後の将軍である徳川慶喜が、水戸学の勤皇思想により行動を縛られた影響は大きい。その意味で、徳川家にとってはむしろ負の影響を後世に残す事になったと言える。ただしこれについては、井沢元彦は『逆説の日本史』において、水戸徳川家は、徳川氏が天皇(朝廷)と対立した場合、どちらが勝っても徳川の血筋が残るように天皇側につくことを定められ、将軍を出さないよう決められていたという説を提唱している。そして井沢元彦は、水戸藩から最後の将軍が出てしまった事については、8代将軍吉宗が御三卿を創始した事によって当初の予定を狂わせたとしている。しかし水戸藩が水戸学によって勤皇路線に進むのは光圀以降の事であり、徳川家康死後の話である事から、この説の信憑性には疑問がある。仮にこの説が正しいにしても、水戸藩成立時ではなく、光圀の代になってそのように位置づけられたという事になる。むしろ家康存命の頃から勤皇思想で知られたのは尾張藩祖の徳川義直であり、水戸藩ではなく尾張藩のほうが朝廷につく存在だったという説もある。年譜※日付=明治5年(1872年)12月2日までは旧暦系譜父:徳川頼房母:谷重則の娘・久子正室:近衛信尋の娘・尋子(泰姫)側室:玉井氏長男:松平頼常長女:戸田光規室父・頼房や同時代の他の大名と比較して、長命を全うした大名としては非常に寂しい家族関係である。幼少時の扱いがトラウマとして影を落としたのではないかという説もある。墓所・霊廟 瑞龍山 義公廟墓所 - 常陸太田市瑞竜町の瑞龍山にあり、現在、日本最大の儒式墓所となっている。霊廟 - 母の菩提寺である常陸太田市新宿町の靖定山久昌寺の義公廟がある。奉斎神社 - 水戸市常磐町鎮座の常磐神社に主祭神として祀る。脚注^ 「水戸黄門」とは、水戸藩主で中納言・権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)である。一般に「水戸黄門」と言えば光圀のことを指すが、水戸藩主で中納言・権中納言に任命されたのは頼房、光圀、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤であるため、水戸黄門は7人いたということになる。^ a b 天和3年(1683年)に改名したとの説もある。「圀」字は武則天(則天武后)の命で定めた則天文字の一字であり、他の用例はほとんどない。^ そのため「皮厚さ一寸の鮭を持ってきたら、35石と取り替える」という噂がたったという伝説があるが、これは伊達政宗の逸話である。小菅桂子『水戸黄門の食卓―元禄の食事情』(中公新書)ISBN 978-4121010599参考文献名越時正『水戸学の研究』神道史学会叢書9 神道史学会 昭和50年5月名越時正『水戸光圀とその余光』水戸史学選書 錦正社 昭和60年5月名越時正『新版・水戸光圀』水戸史学選書 錦正社 昭和61年7月名越時正『水戸学の達成と展開』水戸史学選書 錦正社 平成4年7月『水戸学集成』全6巻 国書刊行会 平成9年12月関連項目江戸時代の人物一覧水戸黄門(水戸黄門漫遊記)保科正之池田光政本圀寺 - 徳川光圀の圀の字を渡された寺則天文字快風丸 - 徳川光圀の命により建造、江戸時代三大船舶のひとつに数えられる。 「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80」より作成カテゴリ: 水戸徳川氏 | 江戸の大名 | 親藩 | 日本の儒学者 | 江戸時代の日本の歴史家 | 常陸国の人物 | 茨城県の歴史 | 水戸学 | 日本の神 (人物神) | 1628年生 | 1701年没徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、江戸時代の常陸国水戸藩第2代藩主。水戸黄門としても知られる[1]。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主徳川頼房の三男、母は側室・谷氏。徳川家康の孫に当たる。藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行ったほか、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。また、徳川一門の長老として、将軍綱吉期には幕政にも影響力を持った。同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をするフィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた(水戸黄門の項を参照)。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。現在では光圀伝承を排除した実証的光圀像の検討も行われており、光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている一方で、為政者としては文化事業が招いた光圀以降の藩財政悪化が指摘されている。生涯寛永5年(1628年)6月10日、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれる。光圀の母は家臣谷重則の娘である久子で、『桃源遺事』によれば頼房は三木夫妻に対して久子の堕胎を命じたが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたという。光圀を懐妊した際に父の頼房はまだ正室を持ってはいなかった。後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、母の久子は奥付きの老女の娘で頼房の寵を得て懐妊するが、頼房の側室であるお勝(円理院、佐々木氏の娘)がこれに機嫌を損ねたため頼房は堕胎を命じ、同じく奥付老女として仕えていた三木之次の妻武佐が頼房の准母であるお梶の方(お勝、英勝院)と相談し、密かに自邸で出産したという。また、光圀の同母兄である頼重出産の際にも同様の先例があったという。『西山遺文』によれば幼少時には三木夫妻の子として育てられたと言われ、光圀の侍医井上玄桐の記した『玄桐筆事』には生誕後間もない光圀と頼房が対面していることを伺わせる逸話を記している。また、『桃源遺事』『義公遺事』『玄桐筆事』などの伝記史料には幼少時からの非凡を示す逸話が記されている。寛永9年(1632年)に光圀と兄(頼重)の存在が明らかになり水戸城に入城した。翌寛永10年(1633年)11月に光圀は世子に決定し、翌月には江戸小石川藩邸に入り世子教育を受ける。世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっているが、頼房の付家老中山信吉(備前守)が水戸へ下向して行われており、3代将軍家光や英勝院の意向もあったという。翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で将軍家光に拝謁している。寛永13年(1636年)には元服し、将軍家光からの偏諱を与えられて光国と改める。承応3年(1654年)には前関白近衛信尋の次女・尋子(泰姫)と結婚。明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。寛文元年(1661年)8月19日、常陸国水戸藩28万石の2代藩主となる。弟・松平頼元に常陸国那珂郡2万石(額田藩)を分与し、26万石となる。 水戸下町住民は飲料水に不自由であったため、藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行望月恒隆に水道設置を命じた。笠原から細谷まで全長約10kmの笠原水道が翌年完成した。 寛文3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、彰考館とする。延宝7年(1679年)、諱を光圀に改める(光圀52歳)[2]。 元禄3年(1690年)10月14日に隠居し、藩主の座を綱條に譲る。元禄4年(1691年)、西山荘に隠棲した。元禄5年(1693年)には水戸藩の藩医であった穂積甫庵(鈴木宗与)に命じて救民妙薬を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。元禄7年(1694年)11月23日、幕閣や諸大名を招いて行われた能舞興行の際、人払いをした密室で重臣の藤井紋太夫を刺殺した。理由は不明だが、藤井が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。72歳頃より食欲不振が目立ち始め、元禄13年(1700年)12月6日に食道癌のため死去。享年73(満71歳没)。光圀は、兄(頼重)を差し置いて藩主になったことを後悔していたといわれ、後継に兄の子(綱方)を養子に迎え世継ぎとしたが、早世したためその弟・綱條を養子に迎え世継ぎとした。また、光圀には側室との間に実子(頼常)がいたが、この実子は兄の養子に出していた。光圀の人物像 茨城県水戸市千波公園にある徳川光圀像幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれ、少年時代は町で刀を振り回したりする不良な振る舞いを行っており、吉原遊廓通いも頻繁にしていた。さらには辻斬りを行うなど蛮行を働いている。しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより学問に精を出すこととなる。しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐みの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。さらに、野犬50匹を捕らえてその皮を綱吉に献上したこともある。また、オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、朱舜水を招き、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま譜代の家臣にしてしまってもいる。他に水戸に来た中国人(もしかしたら清朝から亡命して来た漢民族)も譜代の家臣か使用人にした。鮭も好物であり、カマとハラスと皮[3]を特に好んだ。さらに、吉原遊郭近郊の浅草界隈で見た手打ちうどんの技術を自ら身につけ、うどんを打つこともあったという。当時の人物としては普通に衆道のたしなみもあった。光圀は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。女色は両方が快楽を得るが男色は片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛でしかない。政治は女色のように為政者も民も両方が快楽を得るようにしなくてはならないという意味である。『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなり、光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与える。延宝2年(1674年)には、父・頼房の実母(お万の方)の墓参りと、頼房の准母(お勝の方)の三十三回忌供養のため、鎌倉に出向く。この鎌倉までの日記を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)として纏め上げた。更に貞享2年(1685年)には、「鎌倉日記」を基にした地誌『新編鎌倉志』の編纂を家臣の河井恒久らに命じる。元禄5年(1692年)には、南北朝時代に湊川の戦いで戦死した楠木正成の功績を称え、同地に墓石を建立(光圀65歳)。墓石には、光圀の自筆で「嗚呼忠臣楠氏之墓」と記されている。なお、その場所は明治5年(1872年)、明治天皇によって湊川神社が建立され、昭和30年(1955年)には光圀の銅像も建立されている。光圀にみる水戸徳川家の地位大日本史の編纂により、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くをこの事業に注ぎ込むこととなる。財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、光圀の養子・綱條が財政改革に乗り出すが、水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。これにより水戸藩は、幕閣や譜代大名から「綱條公は将軍の器にあらず」との認識を持たれることとなり、享保元年(1716年)の将軍・徳川家継の後継者選びにおいては綱條が御三家の当主の内、最年長であるにも関わらず、紀州藩主・徳川吉宗が後継者に選ばれた。以後、水戸徳川家からは将軍を出さず、将軍の補佐役として参勤交代を行わず江戸に定府することとなる。常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は(俗に)「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになる。結局、2代目藩主・光圀以降、9代藩主・斉昭の七男・慶喜が将軍職に就くまで、水戸徳川家からは将軍職に就く者はいなかった。また、慶喜は一橋家に養子に出され、そこから将軍職に就いたので、系譜上では水戸徳川家から直接将軍に就いた訳ではない。光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきだが、その一方で藩財政の悪化を招き、ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われる。結果的には「水戸学」が目指した“愛民”の理想からは逸脱してしまった側面も存在し、単純に「名君」として評することはできない。また、光圀の勤皇思想は、幕末において倒幕のイデオロギーとなり、結果として徳川家の天下を終了させる原因のひとつとなった。特に水戸藩出身で最後の将軍である徳川慶喜が、水戸学の勤皇思想により行動を縛られた影響は大きい。その意味で、徳川家にとってはむしろ負の影響を後世に残す事になったと言える。ただしこれについては、井沢元彦は『逆説の日本史』において、水戸徳川家は、徳川氏が天皇(朝廷)と対立した場合、どちらが勝っても徳川の血筋が残るように天皇側につくことを定められ、将軍を出さないよう決められていたという説を提唱している。そして井沢元彦は、水戸藩から最後の将軍が出てしまった事については、8代将軍吉宗が御三卿を創始した事によって当初の予定を狂わせたとしている。しかし水戸藩が水戸学によって勤皇路線に進むのは光圀以降の事であり、徳川家康死後の話である事から、この説の信憑性には疑問がある。仮にこの説が正しいにしても、水戸藩成立時ではなく、光圀の代になってそのように位置づけられたという事になる。むしろ家康存命の頃から勤皇思想で知られたのは尾張藩祖の徳川義直であり、水戸藩ではなく尾張藩のほうが朝廷につく存在だったという説もある。年譜※日付=明治5年(1872年)12月2日までは旧暦系譜父:徳川頼房母:谷重則の娘・久子正室:近衛信尋の娘・尋子(泰姫)側室:玉井氏長男:松平頼常長女:戸田光規室父・頼房や同時代の他の大名と比較して、長命を全うした大名としては非常に寂しい家族関係である。幼少時の扱いがトラウマとして影を落としたのではないかという説もある。墓所・霊廟 瑞龍山 義公廟墓所 - 常陸太田市瑞竜町の瑞龍山にあり、現在、日本最大の儒式墓所となっている。霊廟 - 母の菩提寺である常陸太田市新宿町の靖定山久昌寺の義公廟がある。奉斎神社 - 水戸市常磐町鎮座の常磐神社に主祭神として祀る。脚注^ 「水戸黄門」とは、水戸藩主で中納言・権中納言に任命された「水戸中納言」の唐名(漢風名称)である。一般に「水戸黄門」と言えば光圀のことを指すが、水戸藩主で中納言・権中納言に任命されたのは頼房、光圀、綱條、治保、斉脩、斉昭、慶篤であるため、水戸黄門は7人いたということになる。^ a b 天和3年(1683年)に改名したとの説もある。「圀」字は武則天(則天武后)の命で定めた則天文字の一字であり、他の用例はほとんどない。^ そのため「皮厚さ一寸の鮭を持ってきたら、35石と取り替える」という噂がたったという伝説があるが、これは伊達政宗の逸話である。小菅桂子『水戸黄門の食卓―元禄の食事情』(中公新書)ISBN 978-4121010599参考文献名越時正『水戸学の研究』神道史学会叢書9 神道史学会 昭和50年5月名越時正『水戸光圀とその余光』水戸史学選書 錦正社 昭和60年5月名越時正『新版・水戸光圀』水戸史学選書 錦正社 昭和61年7月名越時正『水戸学の達成と展開』水戸史学選書 錦正社 平成4年7月『水戸学集成』全6巻 国書刊行会 平成9年12月関連項目江戸時代の人物一覧水戸黄門(水戸黄門漫遊記)保科正之池田光政本圀寺 - 徳川光圀の圀の字を渡された寺則天文字快風丸 - 徳川光圀の命により建造、江戸時代三大船舶のひとつに数えられる。 「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E5%9C%80」より作成カテゴリ: 水戸徳川氏 | 江戸の大名 | 親藩 | 日本の儒学者 | 江戸時代の日本の歴史家 | 常陸国の人物 | 茨城県の歴史 | 水戸学 | 日本の神 (人物神) | 1628年生 | 1701年没

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